能登を忘れないで、という言葉
- tsurusawayuko
- 8月10日
- 読了時間: 4分
「◯◯さんの奥さん、軽度のアルツハイマーなんだって」
先日耳にした、地震後早い段階で全壊判定を受けた家を解体し、県内の都市部へ移住した方の話。
お子さんの住まいの近くに家を買ったと聞き、安心して住めるようになってよかったね、と思っていたんだけど。
地震を機に症状が出て、引っ越しと共に悪化したようです。
能登半島地震の死者数は現在、645名。
そのうち、災害関連死が417名。
自然災害とは別の、災害が起こっている状態です。
家のこと、土地のこと、仕事のこと、お金のこと、子育て環境、老後や終活のこと・・・。
今回の地震を機に、多くの人が、本来であればゆっくり時間をかけて考えていくはずだった自分や家族の人生を、1年程度で、急速に決断しなくてはいけない状況になりました。
発災直後、被災したほとんどの人が「早くきれいにして、なかったことにしたい」「早く元の生活に戻りたい」「早く安心できる場所にいきたい」という思いになっていたのは、当然のこと。
そのため、早々に家を解体をし、能登外に転居した方もたくさんいます(もちろん、否が応にも故郷を離れなくてはいけなくなった人たちもたくさんいる)。
ただ、その決断が早かった人ほど、現実と自分自身の心の位置やスピードのギャップが、のちに、心身の症状として現れているように感じます。
体の症状に出る場合もあれば、病気とまではいかずとも明らかにイライラしたり、あるいはいつでもネガティブな話ばかりをしたり、一方的で会話が成り立ちにくくなったり。
「あの人も歳とったね」「疲れてるのかな」ということでまとめることは簡単だし、正直、苛立ちやネガティブな話を受けとめるのがしんどくって、「ぐちぐち言わないで、自分が何できるか考えてよ」と言いたくなることもあるけど。
本当はその発言や嘆き、怒りのもっともっと根底にある澱みと向き合わなくてはいけないんだな、と、冒頭の方の話を聞いて、自省しました。
「その人がたまたま」なんて目を背けてるうちに、自分の家族や、私自身が本人になる可能性だって十分あるんだから。
ともかくみんなが何かに焦っている感じがするのは、発災後からずっと共通していること。
その理由の一端には、高齢者が非常に多い地域性と、希望を持てる未来が見えづらい現実。そして、時間が経てば経つほど風化してしまう、能登は見放されてしまうんじゃないか、という不安感があると思います。
「能登を忘れないで」
この言葉は本当によく目や耳にしたし、今では能登地震のキーワードのようにもなっています。
「能登を忘れないで」
言いたいこともわかるし、その背景にも共感がある。
ただ・・・なぜでしょう。
私はその言葉を聞くたびに、なんともいえない惨めな気持ちに包まれます。
「能登を忘れないで・・・」
「能登を忘れないで・・・」
こんな情景が浮かんでくるんです・・・
吹雪の駅舎・・・
列車に乗り込もうとする背中に追いすがる姿・・・
「お願い、行かないで・・・!」
哀願し、伸ばす手。しかし振り向くことなく愛する人は行ってしまう。
閉まる列車の扉・・・雪の中、指先だけがむなしく空を切る・・・
「お願い、忘れないで・・・」
列車の汽笛が鳴り響く。
そして、吹雪・・・
(私の偏見です。すみません)
でもね。
もしかしたら、もしかしたら。
「能登を忘れないで」というその言葉が、能登にゆかりがありながらも離れて生活をしている人、地震後、別の場所で一旦区切りをつけて生きていこうと前を向いた人、あるいは、ふるさとを離れて暮らさざるを得ない人たちに、少しの寂しさと、ちくりとした痛みを抱かせることもあったんじゃないか、と思ったりもするのでした。
「人の心は変化するもの。そして、人の心の変化にはそれぞれのスピードがある」
ちょくちょく自分に思い起こさせるようにブログに書いていますが、これって、支援に来てくださっている方にも同じことが言えるんだよね、ということを、本当に恥ずかしながら、最近になって気づくことができました。
自然災害は、被災者にとってはもちろん、世界中の誰にとっても突然に起こったことです。
発災当初から支援に来てくださる方もいれば、一年経って「行ってみよう」と訪れてくれる人もいます。
ずっとずっと何度も足を運び続けてくれる人もいるし、これからもっと回数を増やして関わりたい、と言ってくれる仲間もいます。
最近になって生まれた新たな出会いもあれば、離れてても連絡がなくても想っていてくれる人だってたくさんいる。
大人数ではなくても、その時々でちゃんと、能登に、私たちに心を寄せてくれる人たちがいる。
そのことを、なによりもまず私たち自身が信じることが、忘れないでと哀願するよりも、ずっとずっと大切なんじゃない?
Futoは、「忘れたくても忘れられない」と言われるほど、魅力ある人たちが魅力的な人生を生きている、そんな場所を再生していくこと、つくっていくことほうが、向いてるみたいです。
