自然災害が多すぎる
まるで他人事の稚拙な表現で恐縮なのですが、災害の重なりに心の整理が追いついてない、というのが、今の正直な思いです。
温暖化、異常気象。
私たちはすでに、日々の実感としてそれらを十分すぎるほど味わっているはずなのに、人間の適応能力とはいいのか悪いのか優れたもので、暑すぎる夏にも、異常な海水温が引き起こす現象にも、目の前に広がる非常な光景にも慣れ、感情さえもが麻痺してしまっていることに恐ろしさを感じています。
「昔はこんなに暑くなかった」というのは、能登のみなさんも、口を揃えて言います。
「温暖化」「異常気象」。
記号のような言葉はあちこちで常に飛び交っています。
でも、温暖化につながる理由は何なのか、とか、いつから異常と言い続けてるのか?、あるいは、今自分たちは何ができるのか?といった具体的な話には、及びづらいというのが実感です。
「今まで冷房いらなかったんに、冷房つけた」とか「熱中症になったら大変だから冷房つけろって子どもに言われた」とか、「明日は我が身、防災の意識を高めなくちゃ」とか。
もちろん、自分自身や大切な人の身を守る意識は、何よりも大事。
でも、これほどまでに「想定外」「観測史上初」が続くなか、「自分の身は自分で守る」という極端な責任感みたいなものだけが浮かび上がって一人歩きしている状況に、私はすごく違和感を抱きます。
自分の身を守ったその先、他者を助けるとか、そもそもその問題の根っこに向き合っていく意識みたいなところが、薄れてしまっているんじゃないか?と。
本質的なものがすり替えられてしまっているのに、必死に霞を掴もうとしている気分で、その空を切った手を見つめながらなぜか私は、「ああ、今の日本では、これほどまでに自然と人間は乖離してしまったんだ」と、悲しく虚しい気持ちにも包まれるのでした。
自然災害には、自然から発生した現象と社会システムが引き起こす2次的現象みたいなことが関係しているのですが、自然と乖離して暮らすようになった現代社会の人々にとっては、自然現象の要因を社会システムに置き換えて、そこへフォーカスしてさまざまな対処の要望を述べるようになります。
災害につよいまちづくりとして、十分な議論も検討もなされずに、コンクリートで固められたまちがつくられる可能性もあります。どこかから持ってきた概念だけが当てはめられ、歴史や文化を見落としたまちが形成される可能性もあります。
それが単なる絆創膏のような対処療法でしかないどころか、時にはそれがより災害の拡大を招くことにつながる、ということにも気づくことができずに。
地震を体験して以降、ずっと私は「自然災害とはなにか、私たち人間はそこに何を学ぶのか」というのを考えつづけてきました。
被災を経験し大切な存在を失った方の中に「自然は怖い、恐ろしい、どうしてこんなひどいことをするんだ」という感情あらわれるのは当然だと思います。でも私自身、例えば目の前にある、土とか木々とか、空とか海とか、そういうものを責めようという気持ちにもは全くなれなかった。
あらためて、自然災害とは一体なんでしょうか?
私たちは自然災害から何を学び、どこへむかって進むのでしょうか?
私たちは、自然とともに、これからをどう生きるのでしょうか?
今の日本社会において「難しいことは誰かがきっと考えてくれてる」だったり、「国や大手の企業が動かないと変わらない」という他責思考が拭えない現実もあるように感じています。それは教育のせいもあるだろうし、社会システムや政治にも由来するし、確かに、たった一人の力では現状が変わることはないかもしれない。
しかし、「どうせ」と言って、考えることさえも放り投げてしまうことは、人間であることを放棄していることと一緒ではないか、と、思うのです。
