「普通の生活に、戻ってきた?」
Futoともに活動してくださる方に、できるだけ言わないようにして、と伝えている言葉があります。
それは、「命が助かってよかったじゃない」「命さえあればなんでもできる」という言葉。
「命が助かってよかったじゃない」
「命さえあればなんでもできる」
まさにその通りです。
災害で大切な方を失った苦しみ、悲しみを、軽々しく述べることは決してできません。
命あることに感謝しなくてはいけない。それは重々理解しています。
ただ、「命が助かってよかったじゃない」「命さえあればなんでもできる」と言われることで、「命があるんだから私はまし」「他にもっと酷い人がいるんだから、嘆いちゃいけない」
こう被災者の方が思ってしまうこと。それはFutoが一番恐れていることです。
Futoではあまり被災状況を載せないようにしています。それは以前のブログ(https://www.futonoto.org/post/_0221)
に書いたように「ひどい」とはなにか、自分でもその軸がわからないから。
でも、自分が「ひどい」「つらい」「困ってる」と思っている。
その心をきちんと感じ、言葉にしていくことは、とっても大切です。
「言っていいんだよ、嘆いていいんだよ、泣いていいんだよ」
その風呂敷は広げておきたいんです。
だから、「命が助かってよかったじゃない」「命さえあればなんでもできる」は言わないでと伝えています。
もう一つ、
「これで普通の生活ができるね」「だんだん日常の生活に戻ってきたね」という言葉。
今の状況では、被災者の方はこう感じてしまうかもしれません。
「避難所で暮らす日常って?」
「家を無くした私の普通ってなに?」
「水が出れば普通の生活だと思ってる、この人には私の気持ちなんてわかるわけない」
「半壊の家に住めている、それは普通でありがたいと思えってこと?」
相手が善意で、励まそうと思って言ってくれてるとわかるからこそ、被災者は苦しみます。
「こんなに、ひねくれた考えをしてしまう自分が、いやで仕方ない」と。
私たちは、自分で家を壊したわけではないし、国や県や町が地震を引き起こしたわけでもありません。
何もののせいでもないということを、被災者は受け止めています。
だからこそ、嘆きたくなるときもあるんです。
震度7の激しい揺れの恐怖
一瞬にして世界が変わってしまった衝撃
自分の居場所を失った虚無感
突然つきつけられた人生の帰路
世間から忘れさられていく不安
限られたお金のなかで、どこを直してどこを諦めるか
1月1日以前に、「戻る」ということはたぶんありえません。
それは、理解してほしいんです。
ただ、「戻らない」ということはネガティブなことではありません。
嘆くこと、悲しむこと、「戻らない」ということを受け止めること。
その先にこそ、希望があるような気がしています。

今日久しぶりに砂浜で貝を拾う時間をつくりました。
いつもよりあがってる貝の種類と場所が違ったな。
(写真はずっとずっと前ですが、能登の海です)