「心の伴った」
あたたかな春の陽気。
次の季節の予感はわたしたち能登の人たちにとって、とてもワクワクすることです。
季節がめぐるということ。それは、不意に現実をつきつけます。
防災センターの隣には仮設住宅の建設が進み、路地には春の花が咲き始めました。
もうすぐ、初回の仮設住宅への入居がはじまります。
仮設に「おちた」人たちは、どこの避難所に移らなくてはいけないのか、次の仮設はいつ入れるのか、結果はいつわかるのか。常に漠然とした気持ちの中を漂っています。
昼間は家の片付けやお仕事、家族のもとへといく方で人のまるっきり少なくなる避難所で、ある方とお話をしました。
Futoの活動について、着物や古材への思いの話をし、もしお手伝いできることがあればと申し出ました。
すると、その方は、とても優しく「おっしゃることはよくわかります。とてもよくわかります」と言ってくださった後、静かに教えてくれました。
「何かを残す、何かを選ぶということは、半壊とかの人ができること。全壊の家では、ものに対していちいち何かを感じたり選んでいる余裕なんてないと思うよ」
災害から2ヶ月半がたち、Futoも1ヶ月半たちました。
その間に、たくさんの人に支えられ、お話を聞かせてもらったり、手伝いをさせてもらったりしました。応援だってしてもらっている。
その間に、おごりの気持ちはなかったろうか?
自分はいいことをしてるって押し付けてなかったろうか?
相手の気持ちをわかるって、思い込んでなかったろうか?
振り返れば、全壊の状態で、なんとかギリギリ保っているお家に入られているその方の様子を聞きながら、「わかります」と言っていました。
大きくひしゃげた家の中、「最初はすべていらない。ゴミに見えた。くだらないものだと思った」
それなのに、なんとか残っている家。壊れるまでに時間があるからこそ、「だんだん、あれやこれやと本当に役に立たないどうでもよさそうなものに思いを寄せてしまう」
いくたびに余震で傾きを増すギリギリの柱たちに「ごめんね、あとちょっとだから、もうちょっと、なんとかがんばって。そう言い聞かせてるの」
そう教えてくれた、彼女の何が、私たちにわかるのでしょう?
受け止められないのに投げかけるのは、乱暴でしかない。
相手の気持ちなんてわからない。
ということを、わかること。
それこそが、「心の伴う」第一歩。
ボランティアの方がたくさん来てくださり、本当に日々、みなが感謝しています。
頑張っている人を見て元気をもらい、力強く支えられています。
でも、相手の心に寄り添えないほど余裕がなくなるのであれば、抱えているものを少しずつ手放していく。
小さな卒業も、必要な時期なのかもしれません。