いきものを解体する
地震後、能登の建物とすばらしい建材が失われてしまうという危機感から立ち上げた「きのものおき小屋」は、崩れて瓦礫となってしまう前に、解体されてゴミとされてしまう前に、建材や道具を保護できないかという思いで動き始めたプロジェクトです。
最初は主に住居と考えていたのですが、初めのうちに入らせてもらった場所が蔵でした。
正直、これまで「蔵=ものおき」で、現代の人にとってはあまり思い入れがない場所と勝手に思い込んでいましたが、蔵主さんの思いから、すべてが変わりました。(以前の記事)
縁がつながり、現在も、整理などで定期的に入らせてもらえる蔵が二つあります。
我が家には蔵がないので、これまで蔵に入ることはほとんどありませんでした。
蔵を改装したカフェなどに足を運んだことはあったのですが、いわゆる本来の「蔵」は未知。
それが今回、民具を整理するために何度も足を踏み入れるようになり、ぼんやり梁を眺めながらあれこれ考えたり、いろんな人を呼んで、健材のこと、解体のこと、思いなんかを話をしたりするうちに、蔵がどんどん身近になっていくのを感じました。
蔵の包容力、とはFutoメンバーが言った言葉ですが、最近では、ちょっと疲れたら蔵に入らせてもらおう、という感じにさえなりつつあります。
なんとなく地震の後の人間関係にも似ているけど、世間体とか肩書きとか壁(実際に壁がないけど)とかが取り払われた無垢な状態で付き合っていると、その存在と心で向き合える。
なんだかバディ感さえ感じて、愛しくてしょうがなくなってきました。



でも、そんな蔵も、私たちが入っているということは、解体が前提であるということ。
昨日は、土が落ち、傾いた柱の、「元壁」を眺めながら、重機でガッシャーンと壊されてしまう様子を想像し、胸が痛んでしまって、人の蔵なのにずっと居座ってしまいました。

公費解体を申し込んだってすぐに解体されません。
1年、2年先かもしれないという話もあります。
その間に蔵は、ゆっくりと年老いてくだろうし、もしかしたら老衰のように朽ちていくかもしれません。
でも、ある日突然「じゃあ解体しますね」と重機がやってきてがシャーンと潰されてしまうのかもしれない。
もちろん「なんとか残せないかな」と考えるのは他人の綺麗事。
維持するのは蔵主さんだし、それが難しいことは理解しています。
ただ、公費解体のやり方には疑問が残ります。どんな解体方法をとるんだろう。
手で時間をかけて壊していくような解体ってやっぱりできないのかなあ・・・と。
解体業者さんだって手一杯の中でやっている。
時間や人的、金銭的制約の中で、無理は言えないし、きっと尊厳を持って解体してくれる人たちだってたくさんいるはずだ。

ふと、魚を捌いているときのことを思い出しました。
生き物を捌くときのように、尊厳をもって解体する・・・
解体って奥深いですね。