「もの」に「ものがたり」はいらないのか
すっかり更新が滞ってしまっていました。
公費解体が一斉にはじまる、と構えていたものの思ったよりはゆっくりのスピードで、俗に言う「進んでない」。
なんとなく宙ぶらりんの時間でした。
半年経ち、徐々に支援や作業の方の姿も減り、崩れた家のまちなみに人がいないゴーストタウン感が漂ってなんとも虚しい。
梅雨に入って、あちこちで「体調不良」を聞くようにもなりました。
何を書こうかな。
正直いってネガティブな話が多いけど、ネガティブ話って書いてると沈んじゃうんだよなあ。
ともやもやしてるうちに、1ヶ月も経ってしまいました。
気を取り直して、今日は私たちがよくやっている「蔵に入る」活動について少し。
正直、Futo立ち上げ当初はこれほどまでに蔵に入るとは思っていませんでした。
そもそも「きのものおき小屋」プロジェクトは、解体家屋の古材を保護保管することを目的にはじめたプロジェクト。
「もの」の保護保管については特に考えてなかったのですが、蔵という存在や蔵に眠るものの魅力にとりつかれて、今では私たちの主たる活動の一つになりつつあります。
私たちが蔵に入る場合には、何パターンかあります。
災害ゴミの搬出などのお片付けの作業の依頼をうけて入らせてもらう場合。
町の生涯学習課の方や文化財課の方からお知らせいただいて、北前船の廻船問屋さんや富来の歴史とゆかりの深い蔵でレスキュー作業に便乗する場合。
この蔵はきっと素敵なものが眠っているというおたくにピンポイントで声をかけ入らせてもらう場合。
お片付け作業の蔵となると、ほとんどが解体予定なので、不必要なものは災害ゴミ処理場に運搬し、できるだけ綺麗にしてお返し。
整理する中で、町にとって貴重な資料と思われるものは町に連絡して保護保管してもらい、それでも誰も引き取らない漆器、食器、民具、道具、木箱などは個人的なセレクトでお譲りいただく、という流れをとっています。
蔵に入ると、いつも「もの」について深く考えさせられます。
蔵は、先代、先先代から受け継がれてきた「もの」が眠っている場所であり、それを継いだ今の世代の方は、そもそも何が入ってるのか知らないという場合も多いです。
でも、おじいちゃんの大切にしてた、おばあちゃんの大切にしてたものを、勝手に捨てるに捨てれない。
両親は「使わないんだけど、もったいないねえ」と言う。
地震で崩れて置き場もないんだから、捨てなきゃいけない。
崩壊寸前の蔵、中身もぐちゃぐちゃになって、入るのも危険なうえに、どれがいる、どれがいらない、整理して親戚に確認することを考えるだけで果てしない。
いつも頭の片隅にはあるけど、いつか、いつか・・・と思っているうちに解体がやってくる。
その時やっと、ことが動き出し、だいたいは最低限必要と思うものを少しを取り出して、「あとは全部捨てよう」という流れになります。
解体という現実を目の前にして、やっと手放す決心と前に進む決心ができたとも言えるかもしれません。
先日入らせていただいた蔵も、地震後は手付かずのまま、公費解体の立ち会い後、10日ほどで解体作業開始予定。
家主さんも、中のものは全て捨てるとおっしゃっていました。
※ちなみに、地震後半年経ちましたが、高齢の方お一人暮らしだったり管理している方が遠方の場合、今もまったく手付かずというお家や蔵もまだまだたくさんあります
個人的に連絡を受け、中をみせていただきたい旨、譲っていただけるのであれば活用させてほしいという旨をお話し、蔵の整理作業とともに入らせてもらいました。
片付けてみると、捕鯨船に乗っていた船乗りさんのおじいちゃんが残した捕鯨関係の道具がたくさん。
町の生涯学習課の方に資料として引き取ってもらおうと思っていましたが、その日の夜、写真をみた遠方の親戚の方から「昔から、よく話を聞いていたの。すごく思い入れがあるものだから捨てないで」と連絡がきたそうです。
ご親戚の方としては、取り出せるなら取り出したかったけど、危険だし遠慮して言い出せなかったのか、写真を見てそのものの存在を思い出されたのか、その辺はわかりません。
ただ、私たちが入ったことで、蘇った「もの」と「ものがたり」があった、ということなのかな。
一方、全て捨ててすっきりしたかったという家主の方の気持ちを、少しかき乱してしまったのではないか?という懸念も残りました。
「もの」に「ものがたり」なんてないほうがいいのか。
これは地震の後からずっと続く問いです。
割れた食器を土嚢袋に詰めながら
崩れ落ちた江戸時代の瓦を運びながら
泥に塗れた古い道具の使い方を想像しながら
ものがゴミに変わる瞬間と向き合いながら。
ものにものがたりがあるから、捨てれない。
捨てられないから前に進めない。
ものにものがたりがあるから、歴史や過去に縛られる。
変えることができない。
のか?
ところで、Futoではわりと初期の頃から、町の生涯学習課・文化財保護関係の方と連携をさせてもらっています。
蔵の解体情報を共有したり、お掃除案件の途中で貴重な資料と思われるものが見つかれば、連絡するようにしています。
そんな皆さんと蔵に入るのは、いつも本当に楽しい時間です。
彼らは全壊の超危険な状態でも忍者のごとく這いつくばって資料探しに精をし、求めていた資料が見つかるとおとな気もなく(失礼)「ああ、これは!これは!」と声がうわずっちゃう。
そんな姿を見て、勝手ながら超親近感、仲間意識を抱いています。
「それ、何に使うん?」「ゴミでしょ」と言われるものを集める私でさえ、「それ、紙屑じゃないですか」と聞きたくなるようなものも、「文書は全部大切!」と丁寧に持っていかれます。
彼らの話を聞いていると、この小さな富来という町にも数えきれないほどのものがたりが折り重なっていて、それはこれからもきっと続くんだと気付かされます。
ちなみにFutoとして集めた「もの」をどうするかというと、できるだけ富来の中で使ってもらいたいなと思っています。
寄付の返礼、一緒に活動するボランティアの方へのお礼として使わせていただくこともありますが、食器などは被災して家財をなくされた方にお譲りしたいし、富来の中でお店を再開する方や、新しくはじめる方がいたらプレゼントしたいと考えています。
ずっとあたためている、解体されてしまう家を改修した店舗や、古材をツギハギしてつくる文化館などでも(この構想はまたいつかお知らせします)もちろん使いたいと思っています。
「もの」に「ものがたり」はいらないのか?
その問いは続きます。
でも、ゴミになるはずだった「もの」が新しい「ものがたり」を歩むのは、やっぱりうれしいな。