地震が、怖い
Futoには、数は少なくとも、長期や定期的に訪れてくれる仲間がいます。
滞在できる拠点は用意していますが、活動は完全無償のボランティア。
彼らは、長く地域に根付いた活動してくれているので、いろいろな人と顔見知りです。
いつも富来に戻ってくるたび、地域の人から「また来てくれたんだね!ありがとう!」の言葉を受けているのを見るんだけど、
今回はそれに加え、「奥能登へ行ってくれるんだね!」という声(思い)をかけられていることが多いように見受けられました。
私自身も「水害支援にも行ってくれるんだよね。ありがとう!」と言ってたし。
先日、その仲間と話をしていた時のこと。
「無理なくだけど、いつでも遠慮せずに奥能登へ活動に行ってね〜!」
何気なく言った私に、しばしの沈黙。
「・・・やっぱりさ、奥能登に行くのには、地震が怖いんだよね」
そうつぶやいた仲間の言葉に、すごく反省させられました。
震度7を経験し、10ヶ月をここで過ごした私たちはどこかで感情が麻痺していて、傾いた家にも蔵にもぐんぐん入るし、周囲の状況を忘れて作業していることも多い。
以前、珠洲へ行った時の記事にも書いたけど、被災した世界を単なる「光景」として受け入れることで、自分たちの心を守る術を身につけてしまいました。
いくら悲惨な状態を目に取り込んでも、それが起こった背景や、そこで何が起こったかを、想像することを完全にやめています。
先日、水害後の輪島市へ行った際も同じ。
土にまみれた茶色い世界。土砂と巨木が田んぼや道に流れ込み、橋にひっかっかっている。人気のない民家、住居脇で土色の濁流を湛える川。
その光景を横目に、作業の合間の、おにぎりを食べてる私。
「頭おかしいよね」と思いながら。
これは、被災した光景と長く共存する中で育んだ自己防衛方法なのか、単なる「慣れ」なのかは、わかりません。
ただ、そういった過程で、「地震が怖い」という感覚は忘れていた(忘れるようにした)のかもしれないな、と気付かされるのは、不意に余震がやってきた時。
知人は、変わった形の雲を見ると急に不安になると言っていました。
忘れるから、生きていけること。
忘れていた、といって、ないがしろにしてはいけないこと。
その両方があるんだよね。
念を押しますが、奥能登が極端に危険な場所、というのでありません。
地震でダメージ受けていることも、危険箇所が多く残っていることも、余震で被害がじわじわ広がっているというのも、富来と同じ。
きっと、仲間が言った「地震が怖い」の背景にあるのは、人的つながりや土地感覚が少ない場所で、もし被災が起こった場合の不安、というのが大きいのだと思う。
今回の大雨で被害を受けた地域の復旧に向けては、多くのマンパワーが必要です。
できる限り自分も足を運びたいし、多くの人に足を運んでほしい。
ただ、ボランティアはボランティアという立場以前に、一人の人間です。
当たり前に名前があって、感情がある人間。
家族があり、守りたいもの、やりたいことがあり、自分の人生を生きている。
もちろん、恐怖心だってある。
それを、「自分の意思で来てくれたんだから、当然、危険なところも行ってくれるよね」と押し付けてるところがなかったろうか?
「無理なくね」の言葉に「私は行けないけど、よろしく」みたいな感情は、なかったろうか?
ひときわ大切にしてきた、「ありがとう」という言葉の中に、偏った期待やプレッシャーを含めていなかったろうか?
自分を、言葉を、顧みるきっかけになりました。
少し話はそれちゃうけど、東日本大震災の時、ボランティアに行きたい・行かなくてはと思いながら、心身的にどうしても東北に行くことができなくて(自分が何かできる自信がない&災害の現実を咀嚼することができなくて)、1年経ってやっと被災地に足を運びました。
そのことを引け目に思ったこともあったけど、今は、「あの時、すぐにでもなんで行かなかったんだろう」とは思いません。
私が決心できたのは1年後だったし、どれだけ振り返っても、私が行けたのは1年後でした。
そして、その経験が今の活動につながっています。