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輪島塗

について語れるほど、私は、輪島塗に明るくありません。


幼少期から、家でお味噌汁を注ぐお椀は輪島塗だったし、どんぶりものを食べるのも輪島塗の蓋付きのお椀だった、というくらい。


特段好きでも嫌いでもなく、家の食卓に当たり前にあるもの。

輪島塗以外でお味噌汁って何で食べるんだろう?

なんて、考えたこともありませんでした。


みなさんご存知のように人間なんて勝手なもので、当たり前にあるもの、身近にあるもの、それらに価値を見出すのはなかなか至難の技だったりします。



そして、私と同じような方が能登にたくさんいるというのは、今回の地震発生後、よくよくわかりました。



冠婚葬祭を自宅でおこなってきた能登の家には、大量の輪島塗御膳セットが常備されていて、歴史ある家であればあるほど、その数は多い。

とはいえその全てが利用されていたのは、はるか過去のこと。


地震発生後は、被災した蔵や納屋に眠っていた輪島塗が、驚くべき勢いで災害ゴミ置き場へと運搬されていきました。


「ああ、大切な先祖代々の輪島塗が被災してしまった・・・」

という声は、少なくとも私の耳にはほとんど入ってこず(もちろん大事に保管している方も多くいらっしゃいます)。

蔵や納屋が被災して置き場所がない。古いものは捨てるしかない。

もちろんもったいないけど、使わないし、今は100円でも新しくてモダンな食器が買えるんだから、という具合。


かくいうわたしも、「民具、古い道具や器など捨てないで」運動をしていながら、当初は「輪島塗は結構です」と言っていました。

だって、数がありすぎるんだもん・・・。


しかし今は、前のめりに集めているわけではないですが、捨てられる輪島塗を見つけたら「ちょっとまって」と声かけしています。


考えが変わった理由はいたって明快。

「輪島塗ってステキだな」と思ったからです。

(3月18日の記事「漆器の旅


大量の漆器が災害ゴミ置き場で投げ捨てられている一方、避難所では紙皿紙コップで食事をとるという不可思議な現状への疑問もあいまって、引き取りを始めました。



とはいえ、みなさん薄々感じているかと思いますが、やたらと活動の範囲が広いFuto(本人は一本の道を歩んでいるつもりですが、概ねいきあたりバッタリに見えるでしょう)では、輪島塗を集めておきながら、単に「置いておくだけ」の時間が長く続きました。



能登でお店をやる人に使ってもらえればいいけどねえ、と口ではいいながら具体案はなく、

販売して家主さんへのお見舞金に、というマメさもなく、

流れに身を任せておけばそのうち何か動き出すでしょう、なんてうそぶきながら、

お世話になった遠方の方へのお礼として、いくつか贈らせてもらったりしていました。



そんなある日、写真家で友人の森嶋夕貴が、

EIKICHI PROJECTの撮影用にあずま袋を送る際、心ばかりにと同封した器を見て

「ねえ、輪島塗、うちの実家の割烹・大森屋(静岡県磐田市)で、使わせてもらおうかしら」と言ってくれたのでした。


料理屋さんであれば、同型で数が必要なのでたくさん使ってもらえる。

しかもここらでは少々おざなりな扱いをされている輪島塗たちも、先方では稀有な存在。

きっと幸せになれる・・・これは願ってもない受け入れ先です。


ああよかった・・・集めていてよかった・・・

安堵と嬉しさを噛み締めていました。

噛み締めすぎて数ヶ月が過ぎました。



「輪島塗、整理しよう!」

Futoメンバーの宮内直子の声掛けで、ボランティアのみなさんとともに、大量の器を数えて洗って拭いて整理するという作業にはじめて取り掛かったのは、灼熱の8月。

文字通り山積みの器が、すばらしい勢いで整理されていきました。


やっぱり洗って磨くと素敵!生き返るね!なんて喜びつつも、私は知っていた。

まだ整理されるべき輪島塗が、半分以上、残っていることを・・・


「時間があるときでいいから」という優しき友の言葉に甘えた私のぐうたらっぷりはご存知の通りで、気づけば、寒風吹き荒ぶ冬へと、季節は巡っていたのでした。



輪島塗の整理ってさー、数がさ、多くてさー

しかも被災してるから全部そろってるわけじゃないじゃん?

全部洗うしさー、ほら、拭くのがさ、

手拭いじゃないとダメなんだけど、手拭いすぐにびしょびしょになるしさー

あとさ、こっちでも残しておきたいものもあるしさー、整理に時間かけたいっていうか?


なんて、ぶつぶつ現実逃避している私を見かねたボランティアのりえちゃんが、

「輪島塗やるよ。大森屋に送るよ」とお尻をたたいてくれて、

「目がチカチカする!もうしばらく輪島塗見たくない!」という私を横目に、ひたすら器を洗って磨いて整理するという作業をやってくれて、ついに、第一弾が静岡県へと旅立ったのでした。

それが去年末のこと。



ここだけの話、やっと送れたということ自体にすっかり満足していたのですが、森嶋夕貴は写真家ですから、きちんと写真を撮って送ってくれました。

(写真家の娘を輩出しただけ大森屋さんなだけあり、お兄さんもご家族も、すごく美味しそうな料理を載せた写真を何枚も撮ってくださいました)







「器って、料理が載って、人の手に抱えられて、初めて完成するんだね」


というのは写真を見た私が一番に言ったこと。



輪島塗の制作には100を超える工程があり、複数の職人の分業によって作られているというのは有名ですが、さらにその先に、料理を作り盛り付ける人、そして、器を手にとり、食べる人がいる。


器ってそういうもんじゃん、と今更ながらに気付かされました。



「いつか」を待って、大事に大事にしまいこんで埃かぶっているより、輪島塗が、器らしく御膳らしくいれる場所に旅立つっていうのも、いいもんだね。

と、私の考えも新たになったのでした。



「被災した器を」とか「能登復興への支援として」というラベルを貼ってしまうのは、漆器の作り手にも、受け入れてくれた大森屋の皆さん対しても、なんとなく乱暴な気がして個人的にはあまり使いたくありません。


私自身、「瓦礫のなかから、なんとか救い出した希望の輪島塗!」などと思ってないのは、すでにお話した通り。



ただ、器として御膳として、あるいは、ひとつの手仕事として、大切に使ってほしい。

そういう老婆心のようなものをご理解くださった上で、大森屋さん同様に輪島塗を使いたいというお店の方がいらっしゃれば、ご一報ください。






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