なぜ、文化財レスキューが災害支援につながるのか?(3)
- tsurusawayuko
- 5 日前
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更新日:4 日前
今回の災害を機に、「自分は、なぜここ(能登)で生きていくのだろうか?」
という問いは、被災した多くの人が抱いたものではないかと思います。
生まれ育った場所がなんとなく好き。自然が好き。
友達がいるから、祭りがあるから、ここが好き。
だけど、災害を機に家がなくなった、見慣れたまちなみも、通り慣れた道もなくなった。
人も減っていく、仕事もなくなった。またいつ災害が起こるかわからない。
閑散と寂れていくこの町に、「私は、一体なぜ住み続けるのだろう」と。
町外への避難生活をつづけるなかで、「なぜそこに戻らなくてはいけないのだろうか?」と問うた人もいるでしょう。
そして、現に、能登を離れた方も多くいらっしゃいます。
では、ここに残って住んでいる方は、というと、よく耳にするのは「この年齢になって、いまさらどこにいくことができる?」あるいは「家業があるから仕方ない」というような消極的選択と諦観の響きでした。
本人のなかでは何かしら理由があるのかもしれないけど、それを明確に言葉にできない。
あるいは、胸をはって言えるような理由が見つからない、というのが、現実です。
能登の復興が進まないと方々で言われていますが、ハード面はさておき、ソフト面での理由をあげるなら、私は、この、地域全体にはびこる消極的選択ゆえの諦観が、大きな一つの原因ではないか、と感じています。
文化財レスキュー活動の際、往々にして「昔の富来はよかったんだけどね」という嘆息を受けとりました。昔といっても江戸や明治の時代をさすわけではなく、現代の人々が体験した範囲での昔、おおむね戦後の昭和の時代です。そのころは高度経済成長やバブルなど日本にとって「良い時代」だったこともあり、一概に懐古主義になってはいけないと思います。しかし、富来、能登は、日本社会の変遷とともに「絵に描いたような衰退」をしてきた地方であるというのは、紛れもない事実です。
「まちには顔がある」というのは、元金沢市長の山出さんの言葉ですが、複雑な自然環境ゆえ多種多様な歴史と文化を築いてきた地方があるのが日本らしさであり、誇るべき部分だと言えます。
しかし、均一的な都市開発、市町村合併、情報社会、さらに東京一極集中で疲弊した地方の顔は、今、かなり見えづらくなってしまいました。
顔を失ったのは単に、都市の様相だけではありません。
豊かな自然風土と歴史文化がある地域に暮らしながらも、私たちはその地を知る機会を持たず、世代間の継承も断絶されてきました。その結果、知恵や精神性という面でも、私たちは地域の顔を知らずにいます。
さらに、今回の災害を機に、まちはよりいっそう画一的で均質的なインフラ整備に傾き、建物や景観を中心とした歴史文化も損失の危機にあります。
かすかに残っていた、この地域の表情のようなものさえも失いかけている。
顔を失ったまちで暮らす人たちは、地域の個性やアイデンティティを見失い、ここに生きるよろこびや誇りを持つことができずにいます。
文化財レスキュー活動をともにする文化財審議委員の方達はみなボランティアだと知り驚いたのですが、町の予算がつかないなかで、「今はまだそんなことしている場合じゃない」という声があったと聞きました。
しかし、もうすぐ地震から2年経とうとするなかで、私たちにはずっと「漠然とした不安」が覆い被さっている。
その理由は、このまちの未来が描けないから、希望が持てないから。
もっと遡ると、前述の通り、このまちにいる理由さえも見失ったから、あるいは見出せずにいるからです。
道や建物が直る。それは「安心」にはなります。
でも、人々の生きる力や「希望」につながるかというと別の話です。
また、どこかから持ってきたような計画、あるいは、表層だけを取り繕った煌びやかな物語は、ここに暮らす人たちの心が伴った「未来」にはなりえません。
このことは、災害からの復旧復興という部分だけに注力していては見落としてしまうことだと思います。もちろん、災害を機に表出したものであり、災害に伴う事象が大きく関連していますが、もっと前からつづいている根深い問題です。そして、この問題にむきあうことをしなくては、本当の意味での復興やまちの再生は成し得ないと思うのです。
先日、解体予定の旅館さんで譲っていただいた「あるくみるきく選書 3 『ふるさとを語る』(アスク出版)」のなかで、宮本常一は「ふるさと」についてこう記しています。
ーーーそこの風景がよいというのではない。自分の住んでいる世界を自分のものと思い、愛着を持ち、大事にしてきた。その心のもてないものには、ふるさとはないということになる。
自然災害は、発生した地域によって、あるいは自然の歪みの表出の仕方によって、人々への影響が千差万別です。
その災害からどう立ち直るかというのも、当然のことながらモデル化できるものではありません。
だからこそ、私たちは私たちの形で立ち直り、未来を描いていく必要がある。
そのためにも、今一度、この地の顔をしっかり浮かび上がらせることからはじめたいと思います。
揺れた地面を固めるため「とりあえず」コンクリートで覆うのではなく、足元にある土に触れ、風を読み、はるか過去の人々からの声に耳をすませ、自然と人とこのまちの関係性を、丁寧に、しっかりと考えていく頃合いに来ているのだと思います。
そしてそのための端緒となるのが、今回の文化財レスキュー活動で救い出された「もの」たちにあるのではないか?というのが、Futoの考えです。
