なぜ、文化財レスキューが災害支援につながるのか?(1)
- tsurusawayuko
- 4 日前
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少し前、お世話になっている災害支援団体の方と、冒頭の問いについてお話をする機会がありました。
私自身、なんとなく感覚的に理解し行動していたことだけど、いざ説明しようとするとなかなかうまくまとめることができなくって、改めてそのわけを考えてみることにしました。
気楽に書き始めたものの、気づけば論文?というくらい長くなってしまいましたので、数回に区切ってお送りいたします。
また、文体がお堅いのですが、あしからず・・・。
文化財レスキュー、正確には文化財レスキュー活動の支援はFuto立ち上げ早々から行っていたもので、5つのプロジェクト内の位置づけとしては「きのものおき小屋」にあたるものです。
もちろん最初から、文化財をレスキューするぞ、とはじめたわけではなく、被災した蔵や納屋から災害ゴミ運搬のお手伝いをしようとしていた時、廃棄予定の「もの」のなかに古い道具や民具をお見かけし、「これは貴重だと思うから、捨てずに専門機関に連絡したほうがいい」と声かけしたところからはじまっています。
当初、農具、漁具、民具などについて、多くの方は「じいちゃんばあちゃんが使ってた古い道具」くらいの認識で、それが文化的に価値のあるものとは理解していなかったと思います。また、その頃は県の歴史博物館から「文化財などを廃棄する前に連絡を」というチラシが回り始めた頃で、レスキューに関する情報も広くは伝わっていませんでした。
そういった点でFutoの動きはじめは早かった方ではないかと思いますが、それもこれも、たまたま最初に入ったFutoメンバーの家の蔵に、多様な古い道具がたくさん残っていた、それらを実際に使っていたという90代のおじいさまがご健在だった、さらにご家族の皆さんが文化的に価値あるものへご理解があった。そういった縁すべてがつながったことがきっかけでした。
(冒頭にある「志賀町の傾いた納屋・蔵に残された民具 昭和時代」こそが最初のきっかけを作ってくれたものです)
初回のレスキュー以降は、町の担当部署や外部団体である文化財審議委員のみなさんと連携しながら、蔵や納屋の解体があれば連絡をとりあい、折に触れてレスキュー活動に参加させてもらうようになりました。
美術館や博物館に収蔵されるような、いわゆる「文化財」は県の歴史博物館へ。
民具や文献資料など町の歴史文化に関連深いものは、町へ。
さらに、そこからもれ落ちたもの、たとえば器やタンス、カゴやオケなどといった日常の品はFutoへ。
そういう流れも、現場を重ねるにつれ自然にできあがったものです。
さて、改めて、能登地震における文化財レスキューとは何か。
その説明は、石川県立歴史博物館の「令和7年度夏季特別展未来へつなぐ―能登半島地震とレスキュー文化財―」展のパンフレットからの抜粋に委ねます。
ーーー令和6年能登半島地震被災文化財等救援事業(通称・文化財レスキュー事業)は、地震や大雨で被災した家屋などに残された文化財を対象に、救出・応急処置・一時保管を行う事業である。
文字通り、被災した文化的な「もの」を救出し保護保管する活動と言えそうです。では、文化的に貴重な「もの」が救い出され処置され保管されるだけが目的なのか?上述の展示パンフレットの末尾には、以下のようにも記されています。
ーーーレスキューした歴史資料を活用するには、一つひとつに表題をつけるなどの整理作業が必要だ。(中略)資料整理活動を継続的におこない、活用できる資料を一つでも増やすことが、文化財をレスキューした我々の責務でもある。
一般論や歴史博物館さんの想いはそれぞれあると思いますが、単に文化的なものを救い出し保管するだけではなく、活用し、未来にへつなげていくことが重要だということは共通の認識でしょう。
では、災害からレスキューされた文化財の活用とは、一体なにか?それが地震からの復興や地域の再生にどうつながっていくのか?
これからは、Futo的な解釈をお伝えしてみたいと思います。
みなさんなら、どう考えますか?
