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文化自然塾vol.0

19 時間前
読了時間: 7分

長らくFutoを見守ってくださっている皆さんなら、私が「自然塾」とか「文化塾」とか言いつづけていたのを、耳にしていらっしゃると思います。


やるやる詐欺になりかけていましたが、ずっと構想と準備はしていました(語尾強め)。


ただ、文化自然塾における具体的な活動内容は決めていたものの、そのはじめ方を迷っていた。

概念や枠組みを固め「文化自然塾とはこういうものですよ、参加者募集、きてね」という形を、最初からはとりたくなかったのです。


その理由は、私自身が天邪鬼なせいもあり、型が先にできあがったものに参加することにあまり興味が持てないから。そしてもう一つ大事なことは、言葉や概念が先に立ってしまうことは、文化自然塾の本来のめざす形とは真反対に位置する、と思っていたからです。


そんなこんなでぶつぶつ言いながら時間だけ経っていて、第一歩を踏み出しそびれた足がぶらぶらと振り子のようになってきた今日この頃。


かねてから私たちの活動に共感してくださり、富来の地域再生に向けて考えていこう、と一緒に模索してくださっているPolygonのシャーリーンさんたちが、再び、富来を訪れてくれることになりました。


彼女たちはもともと来年の春に1ヶ月程度富来に滞在してくれる予定でいて(当初はPolygonがプロモーションしている台湾茶を広めたいという思いで茶芸をふるまうポップアップショップを富来に開いてくださる、という話だったんですが、そこから議論を重ね、今は展開してのプロジェクトを検討中)、今回の訪問は「来春に向けて、富来のことをもう少し知りたい」という思いをもってくださった結果、実現したものです。


先だっての滞在中、シャーリーンたちには、”わたしの里山”である荒木ヶ丘を紹介し、そこでのささやかな時間をとても気に入ってくれたのですが、今回もまた、季節がめぐって違う表情をみせる”わたしの里山”荒木が丘を楽しんでほしいなあ、と漠然と考えていました。


さらに、シャーリーンたちが事前に共有してくれたニューヨークでの茶芸体験の話や、先日耳にした「日本では昔、もっと座れる(座禅する)場所が多くあったそうだ」という話がリンクして、今回のシャーリーンたちの滞在は荒木ヶ丘で座禅をしてみよう、と決めたのでした。


さて、なぜ座禅?

と言われそうなので補足しておきますと、私が文化自然塾をはじめるうえで、一点、非常に気がかりにしていたことがあります。それは、「人間が自然をコントロールする」という姿勢で、この活動の一歩目を踏み出してしまうこと。


自然塾のなかには、荒れた竹藪を整えながら必要な素材を得るとか、イバラになってしまった道をもう一度道に直すとかいった「里山の手入れ」も考えているのですが、里山に入る時の人間のスタンスが「手入れしてあげている」にならないということは、とっても重要だと感じていました。

「自然がより自然な状態であることを保つために、人間が手を添える」という姿勢でありたい。


この手入れに関して詳細を語り出すと長くなるので自然塾に興味のある方に個別にお伝えしたいのですが、最初の視点がズレてしまうと、理に反した不自然な自然を作ることになってしまいかねない、というのを危惧していました。

例えば、切らなくてもいい木を切ったり、作らなくていい道を作ったり、むやみな採取を行ったり、そういうことです。


自然に対する過剰な人間の干渉は、その結果として、自然災害の拡大を招く。

というのは、地震前後”わたしの里山”に滞在してきた中でのある程度の実体験を含めた私の持論です。



だからこそ、私たちの文化自然塾では、「人間は自然に対して能動的な存在ではなく受容体である」ということを自分自身も含めて確認しておきたかったし、それをまず第一にみんなで体感したかった。


その受容の行為として、座禅がよさそうだな、と全然座禅に詳しくないけど、私は思ったわけです。


そんなこんなで、導かれというか流れに委ねたというか、単なる思いつきと言われたらごめんなさい、という形で唐突に組み上がった文化自然塾Vol.0(と私が勝手に後で名付けただけ)は、"わたしの里山”で「座禅/台湾茶芸/会話」を行う、という非常にシンプルなかたちでの船出となったのでした。





正解もないので振り返りもないですが、もともとは座ったあと、あれやこれやと深く話をすることを想定していたのですが、シャーリーンたちの台湾茶芸が、本当の意味で「感じる」ことに専念させてくれ、しかも一緒にその空間と時間を体験したみなさんが自身の感度をもって「感じ」、それを意図せず共有しあえたのは、出会いの妙というか、人と人の関わるおもしろみとか奥深さをかみしめさせてくれる結果で、なんだかぐっとくるものがありました。




最後に、草稿ですが、文化自然塾についてちょっとした思いを記しておきます。


ちなみに、自然塾のフィールドは主に、”わたしの里山”である、荒木ヶ丘を想定しています。


”わたしの里山”とは何か、荒木ヶ丘はどういう場所か、というのは追々ここでも記すのか、実際そこで時間を共有してくださった方に伝えていくのかまだわかりませんが、能登における”わたしの里山”が、これからの自然と人間、そして自然災害と人間の関係において非常に重要なキーワードであるという私の認識を、ここにお伝えしておきます。




文化自然塾


文化自然塾は、富来(能登)をフィールドに、この地に息づく自然、時と人の手が創り残してきたもの、培われてきた文化を素材とし、人びとがさまざまな差異を超えて、身体、感覚、心で学びあう場です。


願うのは、私自身や参加してくれた方が、自らを主体として「肚からわかる」といった経験を一つでも重ねること。それは、理論と感覚のバランスを擦り合わせていくことにより生まれるものであり、表層的な知識や概念とは全く異なる、自然科学が与えてくれない個人的な解であり、人が自らの生を生きるなかで紡がれていくものがたりの大切な一片です。


人間は自然の一部であり、同時に、人は自然を利用しながら生きつづけている。その矛盾をかかえながら人間と自然は、不即不離のあいまいな調和の内に共存している。


私はこの文化自然塾という活動を通じ、決して見渡すことのできないそのあいまいな調和というものの全体を、ほんのわずかでも眺めてみたいと思っています。同時に、今ここに立っている自らの足元を見つめたい、とも。


この活動は、自然と人間の関係性を問いつづける行為であり、人間が真に心豊かに生きていくとはどういうことか、を問いつづける行為でもあります。


私たちの活動は小さな範囲におけるささやかなものですが、この小さな「肚に落ちたもの」が一つ一つ撚りあわされていくことで、歴史や伝統のその先にある、”これからの私たちの文化”を形作ることができるのではないか、と希望しています。



アウトライン


具体的な内容はそのつど決めていくことになりますが、富来(能登)に伝わる伝統的な手仕事を身につけたり、残されたものを再生するための表現を養ったり、この地を起点に、日本・世界の人々の生活を知ったり伝統的な知恵を学んだり精神性に触れたり、あるいは、私たちを取り囲む自然の内に身を置き、触れたり嗅いだり聞いたり、呼吸をしたり、相互の関係のあり方を探ったりということを行います。


すべてのプログラムにおいて、参加者が自らが感じ、考え、自らの言葉で語る、ということを重要視します。


構成は私塾のようなゼミのようなものですが、教えるー教わるという一方向の形ではなく、互いに学び合うという姿勢を基本とします。また、文化塾と自然塾は相互を行き来するような位置付けです。


会員制のようなものを想定していますが、その都度参加することもできるし、それぞれがもつ知恵や技術を提供する形で加わることもできます。





voluntary association Futo

​石川県羽咋郡志賀町富来地頭町

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