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なぜ、文化財レスキューが災害支援につながるのか?(3)
今回の災害を機に、「自分は、なぜここ(能登)で生きていくのだろうか?」 という問いは、被災した多くの人が抱いたものではないかと思います。 生まれ育った場所がなんとなく好き。自然が好き。 友達がいるから、祭りがあるから、ここが好き。 だけど、災害を機に家がなくなった、見慣れたまちなみも、通り慣れた道もなくなった。 人も減っていく、仕事もなくなった。またいつ災害が起こるかわからない。 閑散と寂れていくこの町に、「私は、一体なぜ住み続けるのだろう」と。 町外への避難生活をつづけるなかで、「なぜそこに戻らなくてはいけないのだろうか?」と問うた人もいるでしょう。 そして、現に、能登を離れた方も多くいらっしゃいます。 では、ここに残って住んでいる方は、というと、よく耳にするのは「この年齢になって、いまさらどこにいくことができる?」あるいは「家業があるから仕方ない」というような消極的選択と諦観の響きでした。 本人のなかでは何かしら理由があるのかもしれないけど、それを明確に言葉にできない。 あるいは、胸をはって言えるような理由が見つか
2025年11月16日


なぜ、文化財レスキューが災害支援につながるのか?(2)
今回、富来地域における文化財レスキューを通じて得たFuto的大発見の一つは、 「あ、富来にも、ちゃんと人々の手仕事、ものづくりの技術があったんだ」 ということでした。 具体的にいうと、竹細工、織物、能登建築などの大工技術といったものです。 竹細工、織物、大工・・・ ああ、はいはい、地方によくあるやつね〜、という感想をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。ズバリそうでしょう。 しかし、丸尾くん。一言わせてくれたまえ。 能登におけるものづくりというと、輪島塗(輪島)、珠洲焼(珠洲)、能登上布(中能登)が特出しているのはご存知の通り。 そして、ここに生まれ育ち、暮らしている身としても、能登のものづくり=特別な職人の特別なもの、という感じで、いわゆる手仕事みたいなものの片鱗は、ほぼ感じられずに生きてきました。 そのため、なんとなーく、能登の一部の特別な産地だけでものづくりが行われていて、あとはただただ貧しい農村漁村が広がっていたんじゃないか?富来なんて、北前船でいっとき栄えただけのミーハーでチャラついた商業地でしかなかったんじゃないか?という懸念があっ
2025年11月16日
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