

志賀町のいま
お声かけいただいて、志賀町のいま、や私たちの活動について、お話しする機会がありました。 その際にお話したことを、ここにも記しておこうと思います。(長い) 志賀町の、いま 町が公表している情報によると、志賀町の解体件数、42,178。 ちなみに志賀町の人口は17,000人。 人口の2.5倍以上が解体となりました。 人口減少率は3.8%。 旧志賀町と旧富来町では今回の地震でも被災状況がまっぷたつに分かれていて、(もちろん旧志賀町でも被災しているおたくはたくさんありますが)、解体数や人口減少率もおおむね富来地域が中心だという印象をもっています。 (あくまで所感です) 以降は、富来地域を中心とした話になります。 家を解体した方たちの多くは、町外に出たか、仮設、あるいは介護施設にはいっている。 仮設に入っている後期高齢者の方中心に、災害公営住宅を待っているという感じ。 現在、水が出てない地域とかはないですが、修繕新築含めて、完全に完了したいうのは個人的な印象で、全体の3割くらい。 地頭町区の一部のマップ。 このマップは地頭町という、旧商店街、かつての中心市


被災していない被災者
最近、ずっと気になっていることがあります。 家族の事情、結婚、仕事・・・故郷の能登を離れて都会にゆき、長く経つという方たちがいらっしゃいます。 多くは70代後半から80代以上で、気軽に能登へ足をはこぶということもできない。 たとえ行けたとしても、被災地に自分が行ったら迷惑なのではないか、という遠慮。 あるいは、自分がその情景を見て傷つくのではないか、というおそれ。 自分は、もうずっと昔に故郷を離れた身。 捨てた、とは言わないけど、しばらく帰ることさえしてこなかったのに。 思い出すことだって多くはなかったはずなのに。 なぜか、地震後の故郷が、気になってしょうがない。 あの景色はどうなってるんだろう。 あの場所は、あの人は・・・ このごろは、ニュースで能登の景色を見ることもなくなった。 たまに小さな新聞記事を見つけては、考えこんでしまう。 気にはなっても、何をしていいのかわからない。 目の前の世界は平穏だ。 ただ、ときどき、波のように押し寄せてくる、心配、不安、あせり。 彼女たちも、心の中で被災を経験している。 私はそうおもっています。...


なぜ、文化財レスキューが災害支援につながるのか?(4)
公費解体の完了が近づくにつれ、文化財レスキューの現場活動は、一区切りを迎えようとしています。 これまで出会ったたくさんの「もの」と富来の文化、歴史から学んだことを次にいかにいかしていくか。Futoとして、どう活用していくか。 まだまだアイデア段階ではありますが、これからやっていきたいことは、見出しつつあります。 まず、歴史博物館の方が書いてくださっているように、今回レスキューした道具、民具、歴史文化などに関する聞き取り調査は、喫緊に行いたいところです。公的機関に委ねたい部分でもありますが、伝承できるみなさんがかなり高齢にもなっているので、あんまり時間に余裕がありません。 民間でできることから少しずつ、早々にはじめなくてはと思っています。 また、地頭町と領家町を歩けるまちとして再構築することをめざすのも、Futo的な大事なテーマに掲げます。その方法はまだ模索中ですが、できればまちなかに、小さなギャラリーでもよいので、今回集められた「もの」と、その「もの」を通じて地域のことを伝えるような場所をつくりたいと思っています。 そしてもう一つ。これはもう少し


なぜ、文化財レスキューが災害支援につながるのか?(3)
今回の災害を機に、「自分は、なぜここ(能登)で生きていくのだろうか?」 という問いは、被災した多くの人が抱いたものではないかと思います。 生まれ育った場所がなんとなく好き。自然が好き。 友達がいるから、祭りがあるから、ここが好き。 だけど、災害を機に家がなくなった、見慣れたまちなみも、通り慣れた道もなくなった。 人も減っていく、仕事もなくなった。またいつ災害が起こるかわからない。 閑散と寂れていくこの町に、「私は、一体なぜ住み続けるのだろう」と。 町外への避難生活をつづけるなかで、「なぜそこに戻らなくてはいけないのだろうか?」と問うた人もいるでしょう。 そして、現に、能登を離れた方も多くいらっしゃいます。 では、ここに残って住んでいる方は、というと、よく耳にするのは「この年齢になって、いまさらどこにいくことができる?」あるいは「家業があるから仕方ない」というような消極的選択と諦観の響きでした。 本人のなかでは何かしら理由があるのかもしれないけど、それを明確に言葉にできない。 あるいは、胸をはって言えるような理由が見つか


なぜ、文化財レスキューが災害支援につながるのか?(2)
今回、富来地域における文化財レスキューを通じて得たFuto的大発見の一つは、 「あ、富来にも、ちゃんと人々の手仕事、ものづくりの技術があったんだ」 ということでした。 具体的にいうと、竹細工、織物、能登建築などの大工技術といったものです。 竹細工、織物、大工・・・ ああ、はいはい、地方によくあるやつね〜、という感想をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。ズバリそうでしょう。 しかし、丸尾くん。一言わせてくれたまえ。 能登におけるものづくりというと、輪島塗(輪島)、珠洲焼(珠洲)、能登上布(中能登)が特出しているのはご存知の通り。 そして、ここに生まれ育ち、暮らしている身としても、能登のものづくり=特別な職人の特別なもの、という感じで、いわゆる手仕事みたいなものの片鱗は、ほぼ感じられずに生きてきました。 そのため、なんとなーく、能登の一部の特別な産地だけでものづくりが行われていて、あとはただただ貧しい農村漁村が広がっていたんじゃないか?富来なんて、北前船でいっとき栄えただけのミーハーでチャラついた商業地でしかなかったんじゃないか?という懸念があっ


なぜ、文化財レスキューが災害支援につながるのか?(1)
少し前、お世話になっている災害支援団体の方と、冒頭の問いについてお話をする機会がありました。 私自身、なんとなく感覚的に理解し行動していたことだけど、いざ説明しようとするとなかなかうまくまとめることができなくって、改めてそのわけを考えてみることにしました。 気楽に書き始めたものの、気づけば論文?というくらい長くなってしまいましたので、数回に区切ってお送りいたします。 また、文体がお堅いのですが、あしからず・・・。 文化財レスキュー、正確には文化財レスキュー活動の支援はFuto立ち上げ早々から行っていたもので、5つのプロジェクト内の位置づけとしては「きのものおき小屋」にあたるものです。 もちろん最初から、文化財をレスキューするぞ、とはじめたわけではなく、被災した蔵や納屋から災害ゴミ運搬のお手伝いをしようとしていた時、廃棄予定の「もの」のなかに古い道具や民具をお見かけし、「これは貴重だと思うから、捨てずに専門機関に連絡したほうがいい」と声かけしたところからはじまっています。 Futo「蔵から目覚めたもの」 当初、農具、漁具、民

